建築、そして家具製作が本格的に始動する
Jyvaskyla(ユバスキュラ)で花開く
ヘルシンキでの仕事があまりなかったAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)は11年の間過ごした実家のあるJyvaskyla(ユバスキュラ)に事務所を移すことを決めました。移ってからは仕事は順調に入って来たようで、2名の従業員を抱えるまでになりました。そのうちの1人はTeuvo Takala(テウヴォ・タカラ)、アアルトの実家のボーイを何年も勤めた人で、30年もの間アアルトと一緒に仕事をしました。彼のメインの仕事は設計の縮図モデルを作ることだったそうです。そして、もう1人はAino Marisio、言わずと知れたあとにAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)の妻になる女性です。
1925年に完成した「Workers’ Club 」はAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)の誉が高まった有名な建物です。外観は重厚、そして厳格でありながら品のある軽快さが感じられ、一般の労働者階級が使うことを念頭に置きながら、質の高い内装で仕上げ、使い勝手のよい動線を取り入れ、内部のインテリアのデザインも自らするなど、後世のアアルトの建築に繋がるすべての「祖先」が凝縮されている建築物と言われています。中に使われている照明は友人のHerry Ericssonが立ち上げた産業デザインを中心に請け負う事務所と共同で開発した、アアルトデザインの第一号の照明です。このJyvaskyla(ユバスキュラ)の事務所を立ち上げた1923年から1927年の次の事務所(Turku)に移るまでの約4年間で、約80のプロジェクトに携わっとされています。
1924年の10月にAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)は事務所のスタッフであったAino Marisio(アイノ・マリスロ)と結婚をし、1ヶ月の休みを取り、ハネムーンと称してヨーロッパ各地の建築、そしてその建築に携わった人達と交流する旅に出ます。交流を持った人達はヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエ。この時ではないですが、後年には親友となるモホリ=ナジ・ラースローとも交流がありました。この交流からのAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)のモダニズムへの傾倒は始まったと言っても過言ではないと思います。また、この頃から彼の身なりも相当変わり、それまで「田舎から出て来た建築家」という風貌だったらしいのですが、きっちりとアイロンがけされたスーツにネクタイ、ピカピカの靴、めざし帽をかぶったり、トレンチコートをまとったりと、一気に都会的なデザイナーの風貌に変わっと言います。私たちが写真でよく見るAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)はこの頃以降に撮られたものが多いのかもしれません。
今知られる家具の原点は1928年のプロジェクト
Jyvaskyla(ユバスキュラ)の事務所で結構な名声を築き上げた彼はまだ29歳。そんな彼は1927年に大きなプロジェクトを手に入れます。有名な「Southwestern Finland Agricultural Cooperate Building」です。Turku(トゥルク)でのプロジェクトです。彼はこのプロジェクトに専念するため、事務所もTurkuに移すことにしました。
このトゥルクでの最初のプロジェクトに納めた家具こそが全ての始まりです。
Agricultural Cooperate Buildingの中に入ることになっていた「Itameri Restaurant」というレストランのインテリアも手がけることになりました。このレストランへの納品した椅子こそが、私達が知るアアルトの家具の元祖なのです。
アアルトは既成概念に囚われて過ぎていると感じていたフィンランド在住の建築家やその仲間達とは上手くやっていなかったようです。ですが、その中でもOtto Korhone(家具製造会社 Huonekalutehdas Companyの創業者)とだけは別で非常に親しい中だったと言います。Otto Korhoneは1920年代の前半にフィンランドでは珍しいく最新鋭の考え方で、モダンな設備の中で家具作りをするということを実施していました。このように過去からの既成概念にとらわらず、新しいものに挑戦していく彼の姿にAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)は共感したんだと思います。
少ない数でしたが、Itameri Restaurantに納品した椅子はすべてAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)とOtto Korhoneが思考錯誤の上、Huonekalutehdas Companyの工場内で製造されたものでした。
Alvar Aalto(アルヴァ・アアルト)とAnio Aalto(アニオ・アアルト)は彼が住んでいたアパートでバウハウスのモダンの流れを汲む家具を何脚もプロジェクトのために試していました。1928年にThonetから購入した2脚のWassily Chairもそうですし、当時ベルリンにあったStandard-Mobel Companyからカタログを取り寄せていたりしました。
Otto Korhoneと出会ってすぐに2人は成型合板に取り組んでいくのですが、もともとAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)が成型合板技術を触れたのはこの時が初めてはありません。彼がエストニアのTallinn(タリン)にある「The Estonian Luterma Company」へ工場見学に出掛けています。1921年のことで、彼が最初の成型合板技術を使った家具を作る7年も前の話です。この会社はおそらく工業的には最初に成型合板を作り出した会社と言われていいて、その噂を聞きつけた彼は工場見学に出掛けています。おそらくこの時に学んだことをヒントにOtto Korhoneと一緒に独自の成型合板技術を作り出したのだと思います。
「肌に触れるところが鉄だと冷たいよね・・・」
1929年にAgricultural Cooperate Buildingに納めたこの「Folk Senna」という椅子に彼の家具への思いがぎっと詰まっています。彼はやっぱり木を使いたったのです。ドイツから取り寄せたMarcel Breuerがデザインした椅子は鉄の部分が体に触れ、寒い時等、座ると心地よい感じがしないとAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)とAnio Aalto(アニオ・アアルト)には印象があり、脚のカンチバレーの部分はMarcel Breuerのデザインのような鉄を使い、座面や背面等の身体が触れる部分についてはOtto Korhoneと一緒に開発した木製の成型合板にし、身体に温かみを残す仕様にしました。この頃から家具に対しては機能的だけでなく、使う人の感覚を大切にする思考がスパークしていきます。その人の感覚と同調する素材として木を多様することになってきます。これは偶然ではなく、彼が幼少時代から森と一緒に生活してきたことからの必然で、父や母、そして育った環境からの影響によるところが多いのではないでしょうか。
この家具を作り出してからも、引き続き成型合板での椅子作りは進められていたようで、1929年にはThonet Mundus家具コンペに賞は何も取りませんでしたが、いくつかの試作品を出品したりしていました。
この頃ちょうど、子育てが忙しい時で2人の娘(Johanna and Hamilar)の世話のため妻のAnio Aalto(アニオ・アアルト)は事務所に出ることは少なくなりつつも、2人の子供のための家具をデザインし、そのデザインはあとあとArtekから製品となり発売されたりしました。
人を中心とした考え、Moholy-Nagy(モホリ=ナジ)と共に
CIAM(Congres International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議。建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築(近代建築)の展開のうえで大きな役割を担った。1928年に始まり、1959年までに各国で11回開催された。)1929年の会合でAalto夫婦は前衛的な芸術表現で有名だったバウハウスのMoholy-Nagy(モホリ=ナジ)と初めて交流を持つことになりました。以後3人は急接近し、ずっと没するまで友情を育んだと言われています。その友情のベースとなるのは建築への考え方です。彼曰く、建築は「空間の創造」であり、その創造される空間はバランスの取れた人間の感覚と同調しなければならず、またその空間は人間の感覚からの延長線上になけばならない。つまり、建築とは一般的には「建物」と思われていますが、そうではなく人間のための空間を、しかも最高にバランスの取れた空間を提供することなんだ、ということだと思います。また、建築物は人の人生の中で大きな役目を持ち、肉体の一部となって機能するほどに大切で、そのものを作る者はこのことを心して、熟慮を重ね建築設計に当たらなければならないということをMoholy-Nagy(モホリ=ナジ)は言っています。こういった考えと同じ考えを持ち建築にあたっていたAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)にとっては、Moholy-Nagy(モホリ=ナジ)は最高の友となったのです。
建築に対しても、そして家具に対しても、「人が中心」。そして、その人と同調する素材は「木」。こういった方程式がAlvar Aalto(アルヴァ・アアルト)の作品すべてに現れるようになったきっかけになる人がMoholy-Nagy(モホリ=ナジ)なんだと思います。この考えがあったからこそ、世にも大きなプロジェクト、結核患者専用の保養所「Paimio Tuberculasis Sanatorium」(「パイミオのサナトリウム」)のような「人を治すところ」を設計を勝ち取ることができたのだと思います。1933年に完成。
全ての部屋に平等に太陽の光、そして新鮮な空気が入るようにと設計された有機的な角度
気が滅入ってしまいそうな入院生活を少しでも明るくしてあげたいとの思いで黄色にした階段。
外にいるような開放感を患者に味わって欲しいと考えた高い天井と自然界にあるような有機的な形。
周りの自然環境とマッチさせるよに考えれらた、建物の高さ、そして有機的な形。
手洗いの時の患者への水はねさえ気にしていた心使い。
患者の気持ちが滅入らないようにとの色使い。結核患者がどう動き、そして直感的に使えるようなインテリアの設計。
病室にデザインされているベットや収納を見ると、カンチバレー方式の鉄製の家具を使うなど、バウハウスの影響を相当受けていたと想像するのはとても簡単です。また、塗装はしてありますが、手に触れる箇所に木が使われているのも特徴です。
パイミオのサナトリウムの家具はArtek(アルテック)のスタンダートラインに。
Alvar Aalto(アルヴァ・アアルト)とHuonekalutehdas Company(ヒュオネカルテダス カンパニー)のOtto Korhonen(オット・コーホネン)はパイミオのサナトリュウムのプロジェクトでもそのパートナーシップの強さを発揮します。様々な木製の家具を納品したのですが、その中でも有名な「パイミオチェア」の有機的な背面そして座面の有機的な形、それにアームと脚が一体となった360度継ぎ目がない成型合板技術です。患者を安心させる家具の素材は木、その形は人間や自然界にあるような有機的な形、そして座っ時に人の体温を奪わず心地いい、さらに成型合板へ塗装された素材は衛生的である等、Alvar Aalto(アルヴァ・アアルト)のこの建築への考え方と共鳴するかのような家具は切っても切り離すことができない大切なエッセンスだったんです。
Otto Korhone(オット・コーホネン)はプロジェクトが完成した1933年から2年後の1935年に亡くなっています。Alvar Aalto(アルヴァ・アアルト)はその死を相当悲しんだそうです。ですが、Otto Korhonen(オット・コーホネン)の意志は息子であるPaavo Korhonen(パヴォ・コーホネン)が引き継ぎ、Alvar Aalto(アルヴァ・アアルト)との共同作業は続き、現在Artek(アルテック)から販売されている家具の多くはこの共同作業から生み出されたものです。
パイミオのサナトリュウムのプロジェクトが終わるとアアルト夫婦はヘルシンキへ事務所、そして住居を移しました。
アアルトの家具はイギリスですごい人気に。
パイミオのサナトリュウムのプロジェクトで納品した全ての家具の展示会がこのプロジェクトの引き渡しが完了する1933年より1年前の1932年にヘルシンキであったNordic Building Exhibitionで行われました。この展示会はそのままの形で翌年の1933年に「Wood Only」との名前に変わり、イギリスロンドンにある有名老舗デパートの「Fortum & Mason」(フォートナム&メイソン)で開催されました。ものすごい反響だったということです。
この辺りから、建築物とは離れ、その建築物にとデザインした家具だけでの販売で成り立つようになってきました。つまり、コンフォートマートが持っていた、「アアルトって家具のデザイナーだよね」っていう勘違いは家具を建築物とは離したところで売っていきましょうという当時の強力なマーケティング戦略に完全に洗脳されていたのかもしれません。少し本を読むだけで、「違ったんだ」と分かることなのに、不思議なものです。