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イルマリ・タピオヴァーラの歩み

イルマリ・タピオヴァーラが生まれ育った北欧フィンランド

北欧フィンランド
北欧フィンランドの地図

イルマリ・タピオヴァーラのお話の前に北欧について少しだけ考えてみたいと思います。

「森と湖の国、フィンランド」 「山とフィヨルドの国、ノルウェー」

どれもその国の特徴を捉えたいい言葉です。

北欧には5つの国が含まれます。 東から西へ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、そして一番南に位置するのデンマークです。これらのうちスウェーデン、ノルウェー、デンマークはスカンジナビア諸国といわれています。

北欧5カ国の内、フィンランドを除く4カ国の人々は北方ゲルマン民族であり、フィンランド人は中央アジアから移住したフィン・ウゴール語族で、民族も言語系統も全く違います。

北欧といえば思い浮かぶ有名なヴァイキング、その海外への活動をしたのは現代のスウェーデン、ノルウェー、デンマークの人々であり、フィンランド人はそれには薄い人々とされています。フィンランド、スウェーデン、ノルウェーは同緯度に位置しているため、植生がほぼ共通しいるので、民家の建て方など共通性がみられます。デンマークは、緯度が南になるだけで植生が変化し、民家の造り方も違います。アイスランドは、ヴァイキング活動でノルウェー人やアイルランド人宣教師などが移住して作られた国で、火山活動が続き、かつてあった森林は、伐採などによって、現在では国土の1%しか残っていないと言われています。

フィンランド、スウェーデン、ノルウェーは、短い夏には太陽が沈まない「白夜」となり、長い冬は太陽が顔を出さない「極夜」となり陰鬱な日々が続きます。春と秋は、夏と冬の間に滑り込んだ季節と言われほどみ短い期間です。

そんな環境ですから、屋外の施設がオープンするのはほとんど夏の間だけで、野外博物館も5月下旬から6月初旬に開き、8月半ばには閉まってしまいます。私たちが住む日本の地域では季節によって施設がやっていないことなどあまりないので、冬に閉まっている施設を見ると「閉まってて、皆さん文句を言わないの?」とか「経済的にやっていけるのかな?」なんて心配になったりします。ですが、地域の人々にとってはそれが当たり前であり、経済もそのように回るように考えられているのです。

イルマリ・タピオヴァーラが生まれたフィンランド。75%程が森。日本だって70%ほどが森。ただ、日本の森は急斜面となっているところが多く、フィンランドでは日本で言う「林」レベルのところにある森が多く、住む高さとほとんど変わらないところに森があり、日本より森やそこにある木に対する意識に差があることを現地の人と話していると気付くことがあります。

日本もフィンランドも手に入る身近な天然資源といえば木。もっとはっきり言うと、共に木しかありません。

ただ、日本では私たちは木に対して、なんとなく「神聖」な意識を持ち、フィンランドでは共に生活をす「友」といったところです。

フィンランドの有名デザイナー、アルヴァ・アールトもそうですが、ものを作る時、真っ先に考える素材は「木」なのです。それは日本でも同じですが、ただ、日本ではその木の加工する人は「特別な人」との意識が強いように思います。反対にフィンランドの人々は木の加工について特別な人だけができるものであるという意識は低く、木は「皆が加工し、そして使うもの」という意識が高いような気がします。

多くの人々が住むヘルシンキは、日本の東京と同じでとても都会的な雰囲気なのですが、そこから離れれば、今でも多くのフィンランド人は昔ながらの生活環境を守りながら生活していることを知ることができます。

工業デザイナーとしての原点

「僕は自らを優れた工業デザイナーだと思ってる。工業デザイナーとは『アーティスト』であるべきだと思う。優れた工業デザイナーになるためには経済的なこと、そして技術的なことをよく知らないといけないとは思うが、それが絶対条件だとは思っていない。アーティストとしての新しいものを創造する卓越した知識や経験があれば、経済的なこと、そして技術的なことは乗り越えられる場合がほとんど。卓越した経済的そして技術的な知識はアーティストのそれを超えることはないと思ってる。優秀な工業デザイナーであるためには自らはアーティストなんだとの意識を忘れてはいけない。」

ーイルマリ・タピオヴァーラー

晩年のイルマリ・タピオヴァーラ

生まれ育った街(フィンランド ハメーンリンナ)の職業訓練校で何年か学んだ後、彼はヘルシンキにある芸大「The Central School of Industrial Art」に進みます。この大学は「ヘルシンキ工科大学」となり、現在では他の大学と合併してAalto University(アアルト大学)と呼ばれ、当時著名なデザイナーのほとんどがこの大学で学び、そして卒業しています。彼もデザインでの将来のキャリアを見据え、この大学に進学することにしました。1937年にインテリアデザイナーとして卒業をするのですが、その2年後には当時フィンランドとソビエト連邦が続けていた「継続戦争」の最前線へと徴兵されます。

この戦争での体験、そして経験が彼の後世のキャリア形成に大きく影響を与えたということはよく知られています。

戦地の最前線での彼の任務は相手を直接倒すことではなく後方支援。彼が学生時代に得た知識を十分発揮できる「建築」の仕事でした。最前線の兵士達に人らしい生活をするための空間を提供すること。

自分の愛する国を守るためとはいえ、明日の我が身が知れないほど緊迫している最前線。戦争での戦士の身体と心の疲弊は相当なものだと思う。そんな最中、フィンランド軍が彼に司令したのはその最前線で戦う兵士に人らしい生活空間を提供すこと。戦争とはいえ、戦士にそういった空間が士気に関わるほど大切なものだと考えるフィンランドのお国柄も素敵だと思いますし、またそれに対して真面目に取り組むイルマリ・タピオヴァーラの実直さは彼が受けてきたフィンランドの教育からのものであるとすれば、今あるあの国の姿は一晩で出来上がったものではなく、彼らの根底に「思いやり」という一本太い何かが流れているからなんだろうと思う。

前列右端:イルマリ・タピオヴァーラ
イルマリ・タピオヴァーラが残したスクラップブックから

戦争により市中はもとより、国中が物資不足で困窮していた時代です。戦争の最前線なんかにいい空間をつくるための資材や道具なんて揃っていません。もちろん予算もありません。あったのは人の知恵と木。イルマリ・タピオヴァーラが計画を作り、指示をし、そして監督、時には自らの現場に出て一緒に作業を行う。道具は作り、森から木を切り出し、製材し、限られた資源の中でありったけの創造力を使い、できる限りの最高の空間を皆で創り上げることに成功していくのです。

資源が限られた環境の中、社会の一員としてできる限りの役目を果たし、皆の協力のもと目指すものを創り上げること。

ここから始まる彼の素晴らしいキャリアは全てこのことが起源となっています。

フィンランドの伝統から学ぶ

原始的な創作活動のヒントの得るため、任務にあたった深い森の周りで昔から住み続けるフィンランド人が使う道具やそして建築技法を学び、そしてそれらを日々の業務に生かしつつ、退役後の創作活動にも役立てようと戦時中であっても創作活動を諦めるようなことはしませんでした。

19世紀後半から20世紀の前半まで、北欧諸国からアメリカに移住した人の数は270万人と言われています。フィンランドからも多く、その当時のソビエト連邦からの支配を避けるために移住した人々もいたとは思いますが、多くの場合はその貧困のため「いい暮らし」を目指してアメリアへ移住したと言われています。

国土の大半が北緯60°(日本の北海道でも北緯41°から45°)よりも北に位置し、1年の半分以上が「極夜」を含む暗く寒い冬の季節です。また土壌は硬い岩盤の上にあるだけの薄い層で決して肥沃とは呼べない土壌。度々の飢餓もあり周りにある白樺の木の内部を粉にして焼いて食べたほど、多くの人々は日々、非常に苦しい生活を強いられていました。

そんな貧しさの中でのものづくりには、装飾性や華美さといった要素が入り込む余地はなかったと思います。こういった貧しさが、たとえ後世、豊かになったとはいえ、栄華を極めていた他の国々が求めていたものとは違う趣向性を持つようになったと考えても異論は出ないのではないでしょうか。北欧にある用に徹したシンプルなもの作りの背景にはこの貧しさがあったと思います。

イルマリ・タピオヴァーラが目の当たりにした地域住民の生活はヘルシンキ近郊で育った彼が知っていた国の姿ではありませんでした。ですが、彼はそのことに出生の起源を見つけ、そして誇りを持ち彼の卓越した創造力と応用力でシンプルかつ機能性の高いフィンランドらしい家具を発表していきます。

ファネットチェア・ピルッカチェア

この彼がデザインした「ファネット」シリーズ、そして「ピルッカ」シリーズは用に徹したフィンランドの生活、そしてシンプルな加工技術から着想を得、1940年代後半から1950年代にデザインされたと言われています。

より良い社会のためのデザイン

ドムスプロジェクトのためのスケッチ

時間、そして物資が大量に消費される戦争。その戦争は戦後の経済発展を促すと言われます。戦争は人々の心を疲弊させ、戦時中は行く末の不安から、消費自粛が自然と起き、行政からの公共投資も減り、またそれに合わせるように民間の設備投資も自粛ぎみになります。ただ、戦争中でもその後の世の中の社会を作るための動きは止まることなく、水面下で粛々と計画が進みます。
戦争が終わると同時に復興計画が実践されていきます。早い復興を望む国民の声を聞き、それをデザインに落とし込んでいくことのできる能力のあるデザイナーにとっては大きなチャンスとなり、その中にあって、物資が不足しているので、限られたリソースの中で最大限の結果を短期間に出して行くことに長けたデザイナーが重宝されることとなります。

イルマリ・タピオヴァーラが戦時中の任務の中で得た「限られたリソースを使い、限られた人の中で協力し合いながら最大限の結果を出す」がまさにこの時勢にぴったりとマッチし、戦後立ち上げた彼のデザイン事務所は様々なプロジェクトのコンペに参加し結果を出して行きます。

そのコンペへのデザインワークは彼一人ではなく、一緒にデザイン事務所を立ち上げた妻のアンニッキ・タピオヴァーラとの共同作業。
2人は共に昼夜を問わず働き、戦後復興を願う人々のために奮闘努力を重ねていきました。

イルマリ・タピオヴァーラ/アンニッキ・タピオヴァーラ

フィンランドモダンデザイン界の巨匠アルヴァ・アールトが資産家であったArtekの共同創業者のマリア・グリセンからの寵愛を受け関連する数々の案件を請け負い有名になるきっかけをつかんだとは反対にイルマリ・タピオヴァーラがおこなったプロジェクトの全ては私たちのような一般の人向けのもので、彼はこれらのプロジェクトを成功に導き徐々に名声を上げて行きます。「人々のためのデザイン」。彼からのデザインワークからはいつもこの言葉が垣間見れる理由はここにあるのです。

質のよいものをできるだけ多くの人のために

フレデリック・テイラー

19世紀の後半、石炭を熱源として効率的なエネルギーを作る技術が生まれ、そのパワーを使いそれまで人の力の及ぶ範囲の規模だけの経済活動から、大規模でそして単一商品の大量生産が可能となる科学技術が生まれ、それまでは裕福な家庭の一部のものであった嗜好品であったり、そしてまた各家庭が小さい範囲だけで作っていた手工芸品であったりが、幅広い民衆が買える価格で市中に出回るようになりました。急に広がった大量生産、工場側ではその管理がずさんで、事故も多いし、不良品も多いし、現在ある大量生産をしている工場からは想像ができないほどひどい現場であったと言われています。

アメリカのフレデリック・テイラー(1856年から1915年)は「科学的管理法の父」と呼ばれ、混沌とした生産現場を科学的技法によって改善していく術を世界に広めた第一人者です。彼の指南から生まれた様々な管理技術により、一部の裕福な国だけが採用できた大量生産がフィンランドのように比較的貧しい国でも使えるようになりました。

イルマリ・タピオヴァーラがデザインを学んだThe Central School of Industrial Artではこのフレデリック・テイラーの管理技法を学ぶ授業もいくつかあり、彼はその授業を熱心に聴講していたと言われています。彼はやがてフィンランドにもやってくるであろう大量生産方式を使った家具生産が家具業界では主流となること確信し、また大量に作られる家具はできるだけ多くの人に認められなければならないし、また人口の少ないフィンランド国内だけでなく、アメリカを中心とした輸出を念頭においてデザインされなければならないと考え始めるのです。

「ドムスチェア」

Domus Academia, a student Union of the University of Helsinki

戦後デザイン活動を再開した彼(イルマリ・タピオヴァーラ)と彼の妻(アンニッキ・タピオヴァーラ)、彼らが生涯忘れることのできないプロジェクトが舞い込こむことになります。1946年、ヘルシンキ大学への学生寮「Domus Academia」(ドムス・アカデミー)の総合インテイリアデザイン。家具から壁紙までの全てのインテリアデザイン、そしてコーディネートをするプロジェクト。

プロジェクトはあるが、物資が足りない戦後。フィンランドに残る最大の資材は「木」(バーチ材)。当時この資材(バーチ材)を使い大量生産方式を取り入れ、新たな販売先を求めていた家具製造会社がフィンランドにありました。製造会社名は「Keravan Puuteollisuus」(「ケラバ木材産業」)。イルマリ・タピオヴァーラはドムス・アカデミーのプロジェクトのためにこの製造会社と幾度かの打ち合わせを重ね、あの有名な椅子のデザインを完成させます。「ドムス・チェア」。

ドムス・アカデミーは学生寮です。そこに住むのは学生。お勉強のために親元から離れ一人暮らしです。だから、寮の中で一番長くすごす場所といえば、机の前です。机があれば、椅子が必要。ですから、机、特に肌に直接触れるデスクチェアがこのプロジェクトの鍵となっていました。

座面や背面にクッション素材を持ってくること、もちろん考えたはずです。でも、その素材が戦後の物資不足の中では手に入らないのです。そこで考えたのが、座る身体の体位を徹底的に調べ、身体の線に沿うように木部を仕上げること。ドムスチェア、あの椅子は長時間お勉強をするために作られた椅子。

ドムスチェア
ドムスチェア

この時デザインしたドムスチェアは組み立て式、そして10脚の積み上げにも耐えられるものでした(現在は共に不可)。それも全てアメリカへの輸出を考えた仕様です。当時のアメリカでの輸入総代理店はあの有名な「KNOLL」社。アメリカでは「Finnchair」という名前で販売されていました。ものすごく売れたということです。

”戦時中の僕の任務はあの快適なドムスチェアの成功は結びついた。最前線の兵士が必要だったのは「宿舎」ではなく快適な「家」。快適に過ごすということを徹底的に考えることでドムスチェアが生まれた”

ーイルマリ・タピオヴァーラー

ドムスチェアでデザイナーとしての名声を高めた彼は「教える」ことに時間を取るようになりました。

まずはアメリカの「Illinois Isntitute of Technology」(イリノイ工科大学)で3年ほど(1954年から1957年)。そして1958年には国連からパラグアイの家具業界底上げを依頼され、その指導者として家族で1年をその地で過ごしています。

イリノイ工科大学は工業デザインではアメリカのトップスクール。その大学から生涯教授となる依頼があったにもかかわらず 彼は断っています。また、国連からの依頼も度々あったようですが、それも全て短期で終え、フィンランドでのデザイン活動に戻っています。彼はインテリアデザイナーとして当時あった最新技術や素材を使い、新たなものを創造する道を生涯歩むことになります。

国際的感覚の起源

まだ彼が大学生の頃、22歳の時にはロンドンに当時あったArtekブランドの英国における総代理店である「Finmar」でインターンシップとして働き、その後、パリに移りコルビジュのデザイン事務所でインターンシップをしています。あの時代、フィンランドはロシアからの移民、そしてスウェーデンからの移民も多く、隣人同志でも言葉が通じないことが多々あり、多様性文化の中で育った彼が世界に出て学んだことは、

”全く違うバックグラウンド者同士を繋げる鍵となることは、その者が住む社会的環境に作られる創造物が同じ方向に向いてデザインされていることだと思う”

と語っています。

つまり、彼は多様性の中にあって、人と人とは繋がるべきであり、そのためにはその人たちが住む社会インフラが同レベルのものであるべきだと考えていたということだと思います。

彼が何度か国連の依頼で出かけた発展途上国での仕事はその国での木材加工業界の技術的指南も含まれていたと思いますが、彼の思いは産業界のインフラを先進国レベルに上げることは、そのぞれの国に住む人同志が分かり合えるきっかけになるだろうとの考えだったのではないでしょうか。

アルヴァ・アールトからの影響

アルヴァ・アアルト《ニューヨーク万国博覧会フィンランド館》1939年

イルマリ・タピオヴァーラがThe Central School of Industrial Artを卒業するのは1937年。その頃、すでにフィンランドでは建築そして家具デザインの分野においてアルヴァ・アールト、そして妻のアニオ・アールトがモダンデザインの代表格として多大な影響力を持っていた頃です。1936年に彼が初めてデザインした椅子はアールトが家具デザインに採用していたバーチ材の積層合版の曲げ加工技術を応用したものでした。また、彼は当時アールトの家具を製造していたフィンランドの家具製造会社(「Otto Korhonen」)に見習い学生として仕事をしていましたし、そのあとのインターシップで彼が選んだ仕事場所はロンドンにあった当時イギリスにおけるアールトデザインの家具の輸入総代理店をしていた「Finmar」であったり、彼がアールトを意識していたことは明らかです。

アールトが世界にその存在感をしめし始めた「Pairs World Exposition in 1937」。そしてその存在感が確信に変わった「World’s Fair, New York, 1939」

当時フィンランドと言えば、世界的には田舎国。また国内的にも、伝統的なテキスタイルやインテリアにおいてはロシア王朝時代からの「アールデコ」スタイルが主流を占めていた時代。国内のアーティストもそれまでの伝統を踏襲するかたちでデザインや手法を後継者に伝えようとまだまだ努力していた時代。イルマリ・タピオヴァーラが卒業したThe Central School of Industrial Artにも伝統的な技法を教える科があり、多くの学生が在籍していましたし、まだまだ周りは新素材を使った大量生産を基本としたモダンデザインについて理解は全く深まっていませんでした。実際、この1937年以前の万博でのフィンランド館は伝統工芸を中心とし活動するフィンランドの団体「The Society of Crafts and Design」が中心として企画され、1933年のTriennale di Milano(ミラノトリエンナーレ)で初めてモダンデザインの流れを汲むグループ「the Applied Art Association、ORNAMO」との共同作業とはなりましたが、まだ「伝統工芸のフィンランド」との打ち出し方に大きな違いはなく、そのミラノトリエンナーレでは34もの様々な受賞があるのですが、その殆どは伝統工芸からのもので例えば手織テキスタイルのデザイナーLaila Karttunenや陶芸のElsa0 Elenius等が含まれています。

Laila Karttunen

1937年のパリ万国博覧会でのアールトデザインの活躍はイルマリ・タピオヴァーラにとっては衝撃的だったらしく、その寸評をコメントした当時の新聞(Helsingin Snomat)への寄稿で以下のように綴っています。

“インテリアを考える上で難解で解くことのできない問題を彼はあのデザインですべてクリアにした。世界的なモダンデザインの潮流の中で北欧におけるモダンデザインの牽引役であるという地位を彼は確固たるものとしたと思う。大量生産を前提としつつ、薄く刻んだバーチ材のシートを機層にも重ね合わせ、また同時に多次元で曲げつつ耐久性を確保しながら、モダンデザインを完成していく創造的デザイン力は感嘆に値する。また、薄い面だけでなく、耐久性が最も必要とされる椅子の脚部分を木材で金属と同じような強度、そして柔軟性で表す特殊な技術はこれから先のフィンランドの家具作りを大きく変えるだろうと思う。これらの特殊な技術が従来の生産コストを下げる結果となり、低価格が可能となり、それまで「いい家具」とは無縁であったらより多く一般層にも質の高いものを供給することことができる結果となり、北欧の世界の中の社会的地位を上げるのに役立つと考える。”

彼はアールトのデザインの流れに傾倒しつつも、このあと、彼はソビエト連邦との戦線に駆り出され、そこでの経験がただ単にアールトのフットステップを追いかけただけではない、彼独自の創造活動に役立っていくのです。

イルマリ・タピオヴァーラデザインを私たちが選ぶ理由

新しいことを始めることよりも、始めたことを継続することの方がとっても難しいと思います。書籍等で彼の生涯を読み解き分かる彼の誠実、そして真面目な性格は彼の手がけたプロジェクトの随所で感じとることができ、「開拓者」としてそれまでなかったものを切り開いていったアールトとは違う彼らしいさが感じ取れます。

アールトのデザインを見て衝撃を受けた影響を、一部の人だけのためのデザインに使うのではなく、より多くの人々にいいインテリアを提供するために使い、そして彼が生涯貫いたそのデザイン姿勢は「続けることの力強さ」を感じます。

当時最新の製造技術、そしてデザインは現代においてはいとも簡単に実現できることかもしれません。でも、あの時彼がよりよい社会を目指し、より多くの人へよりよい暮らしを提供するために必死で取り組んだ姿勢は決して真似することはできません。

今、人の持続可能な生活を深く考える時代です。よりよい暮らしを実現するためには、以前は可能であって人中心に社会の成り立ちを作っていうことはさらに難しくなっていくかもしれません。もし彼が今生きていたなら、人がよりよい生活を続けるこで、周りも一緒に相乗効果で幸せになるインテリアデザインをしてくれたかもしれません。人の幸せの形は時代によって変化します。あの時代に彼が世界中に与えたインテリアを通じた幸せは今はもう通用しません。でも、時代を経て変わった幸せの形も彼なら作り出せそうな気がします。

彼が精一杯の力で人のよりよい生活のためにとデザインした家具。その家具を使うことは、今の時代において、これから先も人の歴史が続くことを強く望む象徴となり、その普遍的デザインの家具を次世代に引き継ぐことは、私たちのその強い意志を次世代に繋ぐことになるのではないでしょうか。

使い心地を徹底的に考えた彼のデザイン。それは、ただ単に身体が心地いいだけでなく、心も心地いいデザインなはず。私たちの意志を繋いでいく心地いいデザインなはず。

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